2015年6月24日水曜日

龍谷大学へのメール2

 龍谷大学のWebサイトを拝見しました。教員・スタッフ紹介に興味を感じましたので、何人かの写真を見てみました。とりわけ、文学部の小島勝教授の写真には考えさせられました。

龍谷大学教員・スタッフ紹介
http://www.ryukoku.ac.jp/who/detail/288367/

 モナリザの微笑のように微笑みながら、実はただ単にヘラヘラ笑いながら、一心に何かを訴えかけようとしている。どうだ、俺は立派な教育者だぞ、この微笑に表れている優しさ、このまなざしに表れている人格の高潔さをとくと御覧あれと必死にアピールしているかのように見える。そうして同時に、僕が前に書いた「まなざし」(http://moriyamag.blogspot.jp/2013/12/blog-post_27.html)を思い出した。
 人は、まなざしだけで人の心に温かさを分け与えることができる。ベネディクト法王のまなざしは、超越的な世界とひとたび関わりをもった人のまなざしだろう。僕の恩人は牧師でも僧侶でもなかったので、超越的な世界と関わりをもたれていたかどうかは分からないが、その可能性はあると思う。ユング心理学の個性化の終着点は、超越的な世界との関わりをもつことである。小島教授の写真を見ながら、彼はユング心理学の個性化の最終的な段階に行き着いたのではないかと思った。
 小島教授は教育者なので、このまなざしでもって自分は立派な教育者であるぞと訴えかけようとしていると考えられる。どこが立派なのか。この写真だけからは分からない。小島教授とユング心理学との関係を知っていれば、ユング心理学によって個性化を果たしたから立派なのであろうと推察することができる。そもそも、ある「まなざし」が人に心の温かさを与えることができるのは、それが愛のまなざしであるからである。小島教授のまなざしに、愛は感じられるだろうか。当然のことながら、愛などというものはまったく感じられない。それは、このまなざしが利己的な動機に発しているからである。自分をよく見せたい、実際の自分よりも立派な人物に見せかけたいという動機のみからこのような目つきをしているのである。実際の小島教授は研究者としても、教育者としても無能である。愛のまなざしは、ある特定の個人だけに向けられる。そして、その特定の個人の心を暖め続ける。不特定多数の人に向けられたこの小島教授の「まなざし」には、愛のひとかけらもないことは言うまでもない。この写真を見る人に寒々とした寂寞の感を催さしめるのみである。小島教授は、教育者としても失格なのである。

 非人間的な小島教授によって奪い取られた金を、早く返していただきたい。

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